Hawaiian Jewelry
ハワイアンジュエリー

ハワイアンジュエリーのルーツ

ハワイアンジュエリーのルーツをたどっていくと、17世紀後半のイギリスにまでさかのぼることになる。17世紀後半といえば、日本はまだ江戸時代で、4代将軍家綱〜5代将軍綱吉の時代である。

黒をあしらった
ジュエリーの起源

17世紀後半のイギリスで、家族や友人への愛や祈り、願いを言葉で彫り込んだゴールドジュエリーが流行し、それは「センチメンタル・ジュエリー」と呼ばれた。

その後、19世紀に入り、1862年にイギリスのビクトリア女王が、夫であるアルバート王子死去の際に「センチメンタル・ジュエリー」のような黒をあしらった喪中用のジュエリーを身につけ、国民もそれに倣い、「ビクトリアン・モーニング(哀悼の意)・ジュエリー」として身につけた。

それから3年間、宮廷では黒をあしらったジュエリーのみが着用をゆるされ、やがてそれがイギリス中に広まっていった。日本は幕末、坂本龍馬をはじめとする志士たちが、日本中を奔走していた時代である。

ビクトリアン・モーニング・
ジュエリー

19世紀後半のハワイは、ハワイ王国第7代のカラカウア王の時代。カラカウア一族の当時の王女リリウ・カマエカハ大酋長(後のリリウオカラニ女王)は世界の動きや流行に敏感であり、ハワイ王室はイギリス王室との関係が深いこともあって、このようなイギリスの情勢に非常に影響を受けた。

彼女は信仰の深かったアルバート王子の死を嘆き悲しみ、喪に復す気持ちを込めて「ホモマナオ・マウ(永遠の思い)」という文字が黒のエナメルで入った、イギリスの喪中用の伝統的なデザインである渦巻き模様(スクロールデザイン)の特注のブレスレッドを作り、一生涯身につけていた。彼女なりに追悼の意を示す、ビクトリアン・モーニング・ジュエリーを作ったわけである。

これがハワイの一般の人々にも次第に広がるわけだが、もう一つ広く広がるきっかけになった出来事があった。

ジュエリーの
贈り物をする習慣

リリウオカラニ女王は、ハワイのトラディショナルソング「アロハオエ」の作者でもあり、文化的なものへの造詣も深かった。1893年、イオラニ宮殿での、舞踏会や演奏会のプログラム作成を手伝ってくれたアトキンソン女史(宮殿近くの女子校の校長先生)に感謝の気持ちをこめて、「アロハオエ」の文字が刻まれたハワイアンスタイルのブレスレットを贈ったのである。

アトキンソン先生はそれを学校に着用していったので、女生徒たちがほしがって、親から娘へ、恋人同士で、ジュエリーの贈り物をする習慣が、ハワイ中に広がっていったのである。

八百万の神々がいる
ハワイ

またリリウオカラニ女王もその後、さまざまな文字が入ったジュエリーを作って、お守りがわりにいつも身につけていたことや、スクロールデザインがハワイ独特の文化と融合して波のデザインに変化し、それ以外にも神が宿るとされる花や葉、動物などをモチーフとしたデザインも彫られるようになって、徐々に現在のハワイアンジュエリーになっていったのである。

もともとハワイの信仰では、神は山川草木や動物に宿るといわれ、絶対優位神のキリスト教とは異なり、農耕の神や狩猟の神もいるといったように、日本と同じような八百万の神々がいると信じされてきた。

日本人がハワイに行くと、親しみやすい気持ちになるのも、こんな信仰が関係しているのではないだろうか。

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